李承信の詩で書くエッセイ ‘空と風と星と詩’ そのまなざしは清かった。 二十七歳で逝き、残された三四枚の拡大された白黒写真は京都で動画をとっているときにも見たが、この日は一日中その顔を見続けた。 彼の詩は彼の顔にそっくりだ。 2月16日、彼の忌日であり、毎年詩碑の前で献花式が行われる日だが、今年は特に80周忌ということもあり、大学が尹東柱に‘名誉文学博士学位’を贈呈する日でもある。 日曜日でもあり午前の礼拝があり、創立者新島襄が150年前に大学の建物のうち一番先に、そして日本国内でも初めて建てられた礼拝堂で、尹東柱詩人の遺影を前にユン・インソク教授に名誉博士学位が贈呈された。満州のお墓の代わりに詩碑の前で挨拶と学生による日韓両国語での‘序詩’の朗読が行われた。参席者は白い菊を一輪ずつ詩碑の前に供え拝礼した。
列が長く二時間ほどかかって再び礼拝堂に戻り、同志社大学の小原克博学長の1時間を越える特別講義をきく。そして遠くから来た来賓たちのための晩餐まで、一日のすべてを尹東柱に捧げた素晴らしい日だった。 日本の詩人の言うように尹東柱には‘夭折の特権’があるというが、満州の北間島で生まれ平壌、ソウル、東京の立教大学、京都、そして福岡へと6つの都市を渡り歩いたその短な生涯のすべてが植民地時代であったことを思うと涙がでる。 詩人の茨木のり子が尹東柱の詩を引用して書いた随筆『ハングルへの旅』が教科書に載り、日本にも少しずつ知られ始めたが、同志社大学が尹東柱のことを知ったのはそれよりずっと後の1994年、作家の多胡吉郎氏がつくった尹東柱のドキュメントが公営放送であるNHKで流されてからのことであり、ずっと認められなかった詩碑のことが許可されたのもそれ以後のことだ。 多胡氏から聞いた大学から詩碑の許可をとるまでの話も長いが、その死後に与えられることになった名誉博士学位はさらに困難な前例のないことだった。小原学長が学長団会議で死者に与える例外を認めさせた。学長の推進力のたまものだと思う。 1943年は日本の統治時代でもあるが、戦争の真っただ中でもあった。 尹東柱は韓国に行くことに決め、友人たちと宇治に遠足に行き、最後の写真を残しもしたが、そのころ‘朝鮮人民族主義グループ’に加担した嫌疑で京都警察に捕まり、福岡刑務所に送られ、そこで獄死した。 「時代の流れに抗しきれず、学生ひとりを守ってやることもできなかった申しわけなさ、戦争の時代の犠牲者となった学生の中に尹東柱という大切な学生がいたことを記憶し、歴史の教訓として心に刻まねばならない」という学長の言葉に感動し、思い出すことがある。 新島襄が当時名もなき第三国から来た学生ひとりを救うために、その他のことを犠牲にしようとしたことに周囲が騒ぎ立てると、「ひとりのひとつの命が尊いのだ」と言った。 学校に通いながらその話を聞いて私は感動した。学校の建物のどこかにその言葉が刻まれてもいる。<諸君よ、人一人は大切なり> ‘尹東柱を語る’というタイトルの小原学長の講演は素晴らしかった。
留学生のうち韓国の学生が最も多いという同志社大学と韓国の関係、そして、広島の原爆体験の証言者だった学長の祖父に影響を受けたという話が印象的だった。 小原学長がドイツ留学で接したドイツと日本の戦争責任理解に関する研究、「記憶を伝えるためにはたくさんの人がそれを共有する文化を育て、さらには普遍性を備えたさらに大きな記憶の文化として育てることが重要だ」(岡裕人『忘却に抵抗するドイツ』)という、印象的なこの言葉は、尹東柱を忘れまいとすることと繋がる。 尹東柱の詩のダイナミズムと文学的技法、その政治性、尹東柱と良心など、博士論文水準の多様なテーマで尹東柱を語り、‘自画像’、‘十字架’、‘序詩’、‘たやすく書かれた詩’の4編を朗読しもした。 <序詩>
死ぬ日まで空を仰ぎ 一点の恥辱なきことを 葉あいにそよぐ風にも わたしは心痛んだ 星をうたう心で 生きとし生けるものをいとおしまねば そしてわたしに与えられた道を歩みゆかねば 今宵も星が風に吹き晒される (1941 11 20)
植民地支配と戦争は国家により発生し、大地震や大雨などの自然災害は自然の力により発生する点において原因と背景は異なるが、無辜の人々が犠牲になり、言葉にできない不条理に満ちていることにおいては共通点がある。詩は不条理の中にいる人々の嘆きに向う。 拙著『君の心で花は咲く 隣人・被災器の友に贈る192の詩』(飛鳥新社)からも2編を直接選び朗読しもした。この本を出したのは同志社大学に行くことなど考えもしなかった時であり、私が今回の尹東柱の行事に参加するかどうかもご存知なかったことを思えば不思議なことだ。 <平和>
辛い歴史をすべて忘れらないとしても 心の澱をおろし 成熟した平和を祈る <関係>
痛みの歴史があるゆえに あなたの痛みを抱きしめることができる 新たに芽吹く私たちの関係 李承信 2012
講演にふさわしいシャープな選択だ。 同志社の韓国同窓会が中心となって1995年に尹東柱の詩碑がよい位置に立ったが、何年か前私が通っていたころにしても、そこを行き来したり、その前にある12列の長いベンチに座っている学生たちに、この詩人のことを知っているかと問えば誰も知らないので、説明してあげたり詩碑に刻まれた詩を朗読して聞かせたりした。 そうした状況にて、2025年は尹東柱80周忌、詩碑建立30周年、日本の戦後80周年、日韓国交正常化60周年を記念する年だ。その歴史の中に尹東柱がいたことを記憶し、ひとりの学生の命を守れなかったことを教訓として刻みつつ、新しい未来に進もうとする姿が大きな感動となって迫ってくる。 情熱的な学長の講演に、同志社大学を通して、尹東柱を通して、日韓両国の友好を願う真心を私はみた。小原学長は韓国語も2年間勉強し、1988年以来20回も訪韓し韓国と尹東柱に対する学問的関心を育ててきた。 韓国人は日本に過去の歴史に対する謝罪が足りないと言うが、ある意味、歴史ある大学の知性たちがその役割をしているという感じを強く受ける。 この特別な一日の素晴らしい講演に、まったくの不意打ちのように私の詩が朗読され、学長の強い勧めで挨拶まですることになり、ありがたくも光栄な瞬間だった。 105歳のキム・ヒョンシク教授が、その生涯に知り合った数多くの人のなかで最も成功した人は、平壌の崇實学校で同じクラスだった尹東柱だといった言葉が思い出される瞬間でもあった。 .
尹東柱’名誉文学博士学位’贈呈式 - 同志社大学礼拝堂 2025 2 16
挨拶するジュ・ホヨン韓日議員連盟会長 – 尹東柱詩碑
尹東柱 80周忌に菊一輪をたずさえて長い列に並ぶ
尹東柱の伝記とNHKドキュメンタリーを制作した作家 多胡吉郎
京都同志社大学 尹東柱同窓会のパク・ヒギュン会長
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李承信 Sunshine Lee TV Personality Poet Essayist Chief Director of Son Hoyun Tanka Research Institute Dept. of English Literature at Ewha Woman’s Univ. Seoul Graduate school of Georgetown Univ. Wash.DC & Syracuse Univ. N Y. Doshisha Univ. Kyoto Voice of America Wash. US. Director of International cooperation committee of Korean Broadcasting Commission Senior adviser of Samsung & Cheil Worldwide Publicat |